Beatles

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 ビートルズの登場(クリオーメン~デビュー前)

ジョン・レノン(以下ジョン)がジョンの友達と結成したクリオーメンは、教会のバザーで行なったライブを、
共通の友人の勧めでステージを観に来ていたポール・マッカートニー(以下ポール)と出会い、クリオーメンに入る。

そして、ポールが以前からの友人だったジョージ・ハリスンをクオリーメンに加入させ、クオリーメンはますます音楽レベルがアップした。
しかし、彼らについていけなくなったメンバーが次々と辞めていくことになる。こうして、ベーシストとドラマー不在のまま活動を続けていくが、
アートスクール(ここで、日本美術を専攻していたらしい)に進んだジョンが出会った親友、スチュアート・サトクリフがようやくベーシストとして加わる。
ジョンとスチュアートにより「シルバー・ビートルズ」と命名されたバンドは、少しずつ名前を変えつつも、いくつかのオーディションを受け、バック・バンドの仕事を得たりしていた。

ドイツのハンブルクでライヴの仕事があると聞き、その条件をクリアーするため、ドラマー:ピート・ベストを加入させた。

その後、スチュアートが抜けて4人編成となったビートルズは、ポールがベースに渋々転向。そして地元リバプールのクラブですさまじい人気を誇るようになっていた。
噂を耳にした地元のレコード店の店長、ブライアン・エプスタインが、ジョンの許可を得てマネージャーに就任した。これが、その後のビートルズの運命を変えることとなる。

 デビュー後のビートルズ(オーディション~ライブ活動停止)

ビートルズにとって、この1962年は飛躍の年となった。
まず正月早々の1/1にデッカレコードのオーディションを受けるも落選してしまう。
ブライアン・エプスタインはその後もめげずにあちこちに売り込みを続けたが結果は芳しくなかった。
4月からは3度目のハンブルグでの演奏巡業を開始するも4/10に元メンバーのスチュアート・サトクリフが死亡。

哀しみにくれていたメンバーに6月、ジョージ・マーティンからオーディションの誘いが。
そして、オーディションの当日に、Love me doとBesame muchoを録音した。
この際に、「何か気に入らないことはある?」とたずねるプロデューサーのジョージ・マーティンに対し、
緊張するジョンとポールを尻目に、ジョージが「あんたのネクタイが気に入らない」と言ったことで場が一気に和んだ。
という有名なエピソードが残っている。その後、ビート・ベストがその後解雇される。

そして、新たなドラマー:リンゴ・スターを迎え入れ、Love me do/P.S.I love you(1962)を録音。この曲が、1stシングルとなった。

その後、1stアルバム:Please please me(1963)や3rdシングル:From me to you/Thank you girl(1963)などを売り出し、これらが大ヒット!
この時期に、英王室主催のコンサートで、ジョンが「安い席の人は拍手を、それ以外の人は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と強烈な皮肉を言ったりした。

その後も2ndアルバム:With the beatlesなどを発表したが、必ず全英・全米で1位になると確信されていた。

そして、1964年。アメリカ上陸及び初出演・初主演映画「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!(ハード・デイズ・ナイト)」が全世界でブームとなった。
この際、映画に収録された3rdアルバム:A hard day's night(1964)は、ほぼジョンの作曲だった。(10/13曲)タイトル曲「ハード・デイズ・ナイト」の
ジョージの12弦ギターは、他のアーティストとの差を表すものとなった。またタイトルは、リンゴの独り言がもととなっている。この映画でリンゴは、俳優としての頭角を表した。

また、4thアルバム:Beatles for sale(1964)がクリスマス商戦に合わせ発売されたが、ジョージのギタリストとしての腕が上がった一方、
4トラックレコーダーを存分に使ったビートルズ中期らしい曲(ギター*2+ベース+ドラム+α)といった曲が多くなった。

爆発的人気を誇る一方で、このころビートルズ自身は、ライブ重視の活動に疑問をもつようになっていた。
4人はビートルズの存在理由は音楽を作り演奏することにあると考えていたが、ファンはビートルズの虚像だけを求めてただ絶叫するばかりで、 音楽を聴こうともしなかった。
1965年に作られた5thアルバム:Help!(1965)は、こうした矛盾に悩み苦しんでいた主にジョンを中心とした4人の潜在的な心の叫びでもあった。
また、Help!は映画「Help!」の収録曲のアルバムである。

その後、6thアルバム:Rubber soul(1965)や7thアルバム:Revolver(1966)、13thシングル:Yellow submarine/Eleanor rigbyなど、
これまでのビートルズの音楽概念を打ち破るものとなり、もはやこれらのアルバムの曲は、ライブで弾かれることはほぼなかった。
特にRubber SoulのNorwegian wood(This wird has flown)は、シタールというインド楽器を使用している。

1966年3月、ジョンが「ビートルズはキリストより有名だ」と言ってしまい、これを「神を冒涜している」と解釈したアメリカで
大変な量の批判・暴動・組織的なレコード等のグッズの破壊・焼却が行われた。
事件から42年を経た2008年11月、ローマ教皇庁(ローマ法王庁)はジョンの発言を赦す声明を発表した。
「有名になった若者が豪語したに過ぎない」というローマ教皇庁の見解であり、事件に終止符を打った。正直、遅い。

そして、1966年に日本武道館でライブを行っている。ちなみに初日(7/31)は、半音下げでの公演であったが、あまりにも観客が静かで、
音がおかしいことにメンバーが気づき(詳細後述)、その後の日本公演は、普通の音で行われている。

その後ビートルズは、ライブでの観客の反応(奇声で音楽が届かないほど)や、自分たちの体力の限界(一部公演では、ギターの音を半分下げていた。しかしまわりがうるさく、自分たちのギターの音すら聞こえないので、ばれなかった。)などにより、1966年8月29日のサンフランシスコ公演を最後に、しばらく観客の前に立つことはなかった。

 ビートルズの個性化(ライブ活動停止~ゲットバックセクション)

1967年はライブを一切やらないと決めたビートルズは、14thシングル:Strawberry fields forever/Penny Lane(両A面)をリリース。これらの曲は、レコーディングだけによるものなので、ライブ等の縛りがない開放的なものとなった。

そして、8thアルバム:Sgt. pepper's lonely hearts club band(1967)がリリース。これについて、ビートルズに対し批判的な人たちからも称賛された。
2月25日、世界3億人が視聴したといわれる世界同時衛星中継番組「Our World」に出演し「All you need is love」を披露する(シングル発売は同年7月)。

8月24日、ビートルズのマネージャーをしていたブライアンが死亡し、ビートルズのマネージメントの不備が発覚。1968年のアップルコア設立へとつながる。

1967年末、映画「Magical mystery tour」がイギリスBBCで放映。評判は芳しくなく、決していい出来とも言えなかった。

1968年、ビートルズはインドへ瞑想旅行に出かけた。4人は心のよりどころを、ドラッグの代わりに瞑想に求めていた。ビートルズの影響で、ミュージシャンのあいだでは瞑想が一種のブームとなり、東洋文化が西洋にもたらされる大きなきっかけにもなった。

18thシングル:Hey jude/Revolution(1968)や、10thアルバムThe BEATLES(1968)通称ホワイトアルバムがリリース。メンバーの個性が芽生える一方、音楽性の違いが出てきている。ちなみに、ホワイトアルバムは、唯一2枚組でリリースされていて(30曲入)、While my guitar Gently Weepsは、リードギターをエリッククラプトンが弾いている。

 ビートルズの解散(ゲットバックセクション~解散)

ゲット・バックセクションとは…ポールが「原点に返ろう」というコンセプトとして始めたもの。
ジョンとジョージは猛反対したものの、実行された。

このセッションが映画になることが決まっているため、カメラをずっと回すことになるのだが、
「いつもカメラが回っている」という意識が、4人の仲を悪くした。
何とかして、ゲットバックセクションを終了させた4人は、アップル・コアの屋上で久々のライブが行われた(ルーフ・トップ・ライブ)

その後、4人は伝説のアルバム(11thアルバム:Abby load)を完成させた。アルバムのB面はメドレーになっている。
また、このアルバムから、イギリス初のシングルカットが行われた(21thシングル:Come together/Something(1969)両A面)

その後、ポールの脱退宣言により、伝説のロックバンドは解散した。

 解散後のビートルズ(解散~)

その後、4人は、それぞれの活動を始めていく。
ニューヨークに移り住んだジョンは、ベトナム戦争反対の運動に参加し、ポールは、バンド「ウイングス」を結成。
1973年、リンゴの1stアルバム:リンゴがリリースされたが、テープ上だけであるが、ビートルズメンバー4人が共演している。

1980年、ジョンが熱狂的なファンにより射殺されてしまう。これにより、物理的なメンバーの結成が不可能となった。
ポールはこのことにより、3ヶ月音楽活動を休止した。

1989年にリンゴ、1990年にポール、1991年にジョージが来日して、日本を沸かせた。

1995年、アンソロジープロジェクトスタート。Free as birdやReal loveといった、ジョンが残した家庭用テープを編集し作られた。
CD、DVD、本でリリースされていて、CDには、たくさんのセッション・ライブが入っている。

1998年11月、ジョージが肺癌のため死去。58歳であった。
その後、残るメンバーはポールとリンゴだけだが、死去するのも時間の問題ともいえるだろう。

2009年、ビートルズのステレオ・モノラルがリマスターされ、発売された。



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