池田屋事件

1864(元治元年)65日、祇園祭の宵山の日に、京都三条の旅館池田屋にて起きた事件。

古高俊太郎逮捕
186465日早朝。新撰組は、近江卿士古高俊太郎宅(桝屋)に踏み込み、倉庫に隠された武器、器械類、書簡類を押収、古高を逮捕、壬生の屯所へと連行した。
古高は初めは黙認したものの、土方歳三の拷問により、尊攘派志士によるクーデター計画を自白した。
その内容は、「風の烈しい夜を待って、洛中に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を長州へ移す」というものであった。詳しくは、公武合体派の首魁(しゅかい)中川宮(朝彦親王)、一橋慶喜、松平容保(京都守護職)の暗殺、孝明天皇を長州へ移す、市中放火など。
この計画を知った近藤勇は、京都守護職・京都所司代に報告、すぐに尊攘派志士たち犯行グループの捜索を始めた。

近藤隊「池田屋」襲撃
同夜(10時頃)、四条木屋町付近から三条方面を捜索していた近藤隊は旅館「池田屋」に踏み込んだ。ここには、古高捕縛の報を受けた尊攘派の志士たちが、その善後策を練るために密会を開いていた。
近藤と沖田総司は二階、永倉新八と藤堂平助が一階、近藤の養子の周平が表を固めた。
一方、尊攘派の志士たちは脇差を抜き、明かりを消して、新撰組の襲撃に備えた。
暗闇の中での戦闘が始まった。
祇園界隈を捜索していた土方隊は、池田屋での戦闘が始まってから約1時間後、池田屋に到着し、表を固めた。土方隊の到着を知った近藤は、尊攘派志士の捕縛を優先し、次々と捕らえていった。結果、宮部鼎蔵(肥後熊本藩士)、吉田稔麿(長州藩士)ら7名を斬殺、23名を捕らえた。

京都守護職・京都所司代の兵3000が到着したのは、闘いがほぼ終わった頃であった。

この事件により新撰組の名が一躍有名になった。
一方、この事件に激怒した長州藩は、尊攘派を中心に挙兵、上京し、蛤御門(禁門)の変を引き起こした。


近藤隊が池田屋までを通ったとされる道のり。
祇園(現不二家)より池田屋(現パチンコ店)。
(実際に歩き、ビデオを撮影した)
http://helixsv.joetsu.ne.jp/ramgen/bbc/movie200501.rm





池田屋内観図

蛤御門の変(禁門の変)

1864719日に起きた、尊攘派萩藩と公武合体派会津・鹿児島両藩を中心とする軍の衝突。1863818日の政変で京都を追われ、朝廷の九門の一つ、禁門の警備の任を解かれた長州勢(尊攘派)が勢力奪回を図って敗れた事件。
18641月参予会議が成立したが、藩主父子の名誉回復や追放された七卿の帰洛を嘆願していた長州では周布政之助、高杉晋作らの持重論と急進派の進発論が渦巻いていたが、同年65日池田屋事件が起こり、急進派が藩論を制した。
これを契機に萩藩は強硬論に転じ、京都へ進発した。624日萩藩軍は京を囲み、軍勢の対峙が続いた。719日早朝開戦したものの、1日で萩藩軍が敗北。京都市中は大火災となり、獄中の志士の多くが殺害された。

721日長州討伐令が下され、第一次長州戦争となった。

油小路事件

18671118日、新撰組参謀:伊東甲子太郎とその一派が新撰組により斬殺された事件。

伊東甲子太郎の入隊
伊東が新撰組に入隊したのは186499日で、池田屋事件後の隊士募集の際に、北辰一刀流の同門・藤堂平助の勧めもあり、入隊している。
伊東は過激な尊皇攘夷、倒幕思想の持ち主であったが、尊王攘夷を掲げつつも幕府のために不逞浪士(攘夷主義者)を取り締まる新撰組にあえて参加した。
その目的は近藤勇、土方歳三を説き伏せ、新撰組を攘夷運動さらには倒幕運動へと誘導することだと言われている。

御陵衛士

しかし、伊東の思い通りには進まず、薩長同盟などの時勢の激しい変動もあって、伊東は新撰組を離脱することを決意した。このとき、かねてより親交を深めていた薩長藩を頼りに御陵衛士を組織し、18673月新撰組を離脱。御陵衛士の目的は禁裏の警護であり、月真院を屯所として活動していた。離脱したメンバーは伊東一派と、藤堂平助、斎藤一などである。斎藤は近藤らの間者だった。
新撰組には局中法度があり、そこには「局を脱するを不許」とある。しかしながら、今回の離脱の動きは大きかったため、自粛せざるを得なかった。
しかし、11月間者である斎藤が御陵衛士の近藤暗殺計画を持ち帰ったことで事態は急展開する。

油小路事件
近藤たち新撰組のほうが御陵衛士より先に動いた。18671118日、伊東を近藤宅の酒宴に招き、その帰り道刺客に襲わせたのだった。伊東の遺体は油小路に捨て置かれ、月真院に残る他の御陵衛士をおびき出すため、この情報を流した。
油小路に現れた7名の御陵衛士に対し、新撰組は40名近い数で迎え撃った。
この事件で御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討ち死にした。

天満屋事件

坂本竜馬の暗殺から遡ること7ヶ月。1867423日、紀州藩船「明光丸」と海援隊「伊呂波丸」が瀬戸内海備後鞆ノ津沖を航行中、衝突。伊呂波丸が沈没するという事件が起こった。この事件で海援隊隊長の坂本竜馬は紀州藩に多額の賠償金を求めた。談判の結果、紀州藩は約8万両の賠償を命じられた。
これにより、海援隊と紀州藩の間には禍根が生じることとなる。

1115日、坂本竜馬と陸援隊隊長中岡慎太郎の二人が京都近江屋において何者かに暗殺された。
これを受けた土佐の同志たちは紀州藩周旋方の三浦休太郎の意向で動いた新撰組によるものと信じ、仇討ちを決意。

集まった同士は、海援隊の陸奥宗光や陸援隊の岩村精一郎、十津川郷士の中井庄五郎ら総勢
16名であった。
一方、三浦のほうでも、彼らの不穏な動きを察知し、会津藩を通して新撰組に護衛を依頼していた。
そして、127日午後8時頃斎藤一を筆頭に7名の新撰組隊士が三浦の宿屋である油小路通り花屋町の天満屋へと向かった。

斎藤たちは中二階の三浦の部屋で酒を飲んでいた。そこへ、夜10時頃、陸奥宗光ら16名が来客を装って天満屋に踏み込んだ。最初に踏み込んだのは居合いの達人である中井庄五郎といわれている。
167という新撰組劣勢の中での激闘となった。新撰組には多数の死傷者が出たものの、相手の死亡者は中井1名であった。

三浦休太郎の護衛という任務は達成したものの、新撰組の勝利とは言いがたい結果に終わった。

これが新撰組の京都における最後の戦いであった。

鳥羽・伏見の戦

戊辰戦争の発端となった戦。186813日開戦。

前年12月の小御所会議で薩摩藩などの討幕派が公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜に辞官・納地が命じられた。しかし、慶喜はこれを拒み大阪城に退き、公議政体派も巻き返しを図ったため、薩摩藩は関東各地で挑発行動を展開した。

1868年元旦。慶喜は討薩の表を草し、翌日会津・桑名両藩兵、新撰組などを含む約15000人の幕府軍が進軍を開始、3日夜京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州両軍約4000人と衝突した。装備で勝る薩長軍は幕府軍を圧倒して、翌日には朝廷から錦旗を受けて官軍が成立、淀・津両藩の寝返りもあり、6日幕府軍は敗走した。

この戦で新政府における討幕派の主導権が確立し、7日には慶喜追討令が出て、東征が開始された。

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