旧前川邸

新撰組屯所として使われていた。
中には、「会津 新撰組 近藤勇」
      「勤勉 努力 活動 発展」
と落書きされた雨戸などがある。
京都に到着した浪士組は壬生村の新徳寺、八木屋敷、前川屋敷に分宿していた。
八木邸(第一屯所跡)

ここには芹沢鴨たちが寝泊りしていた。
奥の座敷は芹沢鴨がおうめとともに暗殺された部屋で、現在も鴨居に刀疵(かたなきず)が残っている。
新徳寺

現新徳禅寺。
1ヶ月間浪士組の本陣として使われた。
壬生寺

新撰組の兵法調練場として使われたり、隊士の墓もある寺。
壬生塚(壬生寺内)

左上:芹沢鴨、平山五郎の墓
左下:野口健司など7人の墓
右上:同上
右下:河合耆三郎の墓
がある。
三条大橋高札場跡

三条大橋の西詰めに幕府の制札場があり、そこに長州藩の罪状が記された。すると、その高札が何度も川に投げ込まれる事件が起こり、新撰組がその監視を命じられた。
この2年後、板橋で処刑された近藤勇の首は大阪でさらされた後、この三条の河原でさらされた。
四国屋跡

池田屋事件のときに、土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」のあったところ。
池田屋跡

1864年(元治元年)6月5日、祇園祭の宵山の日に起きた「池田屋事件」の舞台。
近藤勇率いる新撰組は、古高俊太郎の自供を基に旅館「池田屋」に乗り込み、潜んでいた尊皇攘夷派の志士たちと激闘を繰り広げた。
このときの活躍で、新撰組の名は一躍有名になった。

近藤隊が池田屋までを歩いたとされる道のり(実際に歩いてビデオをとった)
http://helixsv.joetsu.ne.jp/ramgen/bbc/movie200501.rm


蛤御門

京都御苑にある御門9つのうちの1つ。
以前は新在家御門と呼ばれていたが、天明の大火のときに開門されたことから、蛤に例えられ蛤御門と呼ばれるようになった。

1864年(元治元年)7月19日、池田屋事件に激怒した長州兵と、守備についていた会津藩・薩摩藩兵が衝突し、蛤御門'(禁門)の変が起こった。
新撰組は九条河原の銭取橋(現勧進橋)に布陣していた。彼らが到着したときには、既に長州兵は撤退していた。
門には当時の銃痕が残っている。
堺町御門

蛤御門の変のときに九条河原に布陣していた新撰組が御所に向かい、到着した門がここ。
不動堂村屯所(第三屯所跡)

1867年(慶応3年)春から、屯所が伏見奉行所へ移される同年12月12日まで使用されていた。
近藤勇妾宅跡

本光寺

新撰組参謀伊東甲子太郎は近藤勇・土方歳三らとの対立から御陵衛士を結成。
しかし、局中法度により伊東は近藤の妾宅での酒宴の帰りに本光寺前で暗殺される。

(写真の右側の塀から飛び出ているのが伊東の碑。)
油小路決戦地跡

新撰組は本光寺前で暗殺した伊東の遺体を油小路通り七条の辻に運び、駆けつけた御陵衛士を待ち伏せ襲撃した。
西本願寺(第二屯所)

現在の太鼓楼のあたりに第二屯所があった。
1865年(慶応元年)2月から1867年(慶応3年)の春まで使用されていた。
幕府側は勤皇派とみられる西本願寺の活動を抑えるため、ここに新撰組の屯所を設置した。
(現在西本願寺は修復工事中のため写真は太鼓楼)
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建物(Photo)